ビローな話しです。念のため。

 ビルや駅みたいな建物にある男子トイレには立って用を済ます便器(立ち便器、でいいの?)が林立している。で、よく見かけたのが、
<一歩前へ> 

 なんてメッセージだ。

「君が立っているその場所。そこって意外に便器から遠いんだよ。はねると迷惑だからもう一歩前に出て用を足してね」

 という意味だが、要するに「いいから前に出ろ」という命令にほかならない。

 はじめて、この命令文に対峙したのは小学校の時、千葉に墓参りに行った時のことだった。読んでみてすぐにちょっと腹が立った。トイレのくせに人に命令しやがって、と若い僕は反抗心に燃えた。

 そこで、一歩前に出ずに、ある部分だけを前に出せないかトライした。これが結構キツイ。ぼくは雑技団的技能の持ち主ではなく、体のその部分、つまりホースの先端だけを必死に前に出そうとこころみたが、背中がつりそうになって諦めた。あのとき足を前に出した時の敗北感たるや。なにしろ便器に負けたのだ。下手したらトラウマだ。

 

 あれから三十年あまりの時が過ぎた。最近この<一歩前へ>のメッセージをめっきり見かけなくなった。便器の形状も改良され、人間工学なのか膀胱工学なのか知らんが、オリンピックの自転車競技と同じで、絶妙なアールを描いたシルエットが、水気が跳ね飛ばないようにしたのだ――と思い込んでいた。

 違う、全然、違う。ぼくは今、立ち便器にありがとう、と言いたいのだ。

 先日、近所にある巨大モールのトイレに駆け込んだ(酒呑みは基本的に突発的)ところ、そこにある4器の立ち便器が埋まっていた。

 埋まっていた、というのが肝心なのだ。

 気持ち良さそうに用を足している4人全員が、

「便器に抱かれている」状態だったのである。女性にはわかりづらいと思うので補足するが、その立ち便器は床から150センチくらいの高さまで垂直に伸びている。皇帝ペンギンのつがいは向き合って卵を暖めあうシーンが動物番組なんかによく登場するが、あの状態によく似ている(ただし立ち便器の場合はほとんど成人男性より背が低いから「お父さん大好き」と子供が抱きついている様子にも酷似している)。

 立ち便器が使用者に抱きついている――それを見てぼくは気づいてしまった。これまで<一歩前へ>の命令文に誰もが腹を立てていたということに。そして便器は<一歩前へ>と高圧的に命じることを諦め、自ら人間に向って歩みよってきたのだ。

 泣かせるじゃないか。立ち便器は、いくら命じても奏功しなかった無念の日々を越えたのだ。しかも<一歩前に出ました>とは口にしない奥ゆかしさ。
 この姿勢には大いに学ぶべきことがある。そして今日からぼくは頭をたれて用を足す。