旧暦やら数えやらが気になってしかたない。

お寺にいってことしの運勢早見表みたいなものを見た。そうしたら、「数えで四十」に分類されていたのである。

「数え」。いやはや昔の人はおそろしい。オレは今年40になるのだが、誕生日は5月なので、いまは30代ラストスパートでいろいろやらんといかんと思っていた。しかるに、昔の人にならえば、年が明けたらいきなり四十である。「玄関開けたら2分でごはん」のはずが、「玄関開けたらごはん」みたいなものである。期限の利益の喪失である。

ただ、これはあっさりしていていい。「早生まれだから」とか「学年は」とか、そういう齟齬がない。「今年40」なら元旦からその組に入るわけだ。潔くていいじゃない。

なにしろ数年前から困っている。祭日なんかが「ハッピーマンデー」なんてうかれた理由でほいほい変化すると、こっちは昔の休日パターンが体にしみついているから、不意をつかれたように休みなったり休みじゃなかったりする。それで締め切りに遅れる(言い訳)。

とまれ、こういう数えとか旧暦とかって、もうちょっと活かしてというか意識したほうが楽しいかも、なんて最近強く思うのだ。

昨年、服部幸應さんにインタビューしたとき、旧暦のお祭りを日付だけあわせてやってもねえ…、というお話を伺った。なるほど、3月3日にハマグリの吸い物なんて旬には早い。ところが旧暦なら、だいたいその一月後にあたるのだから、ちょうどハマグリなんて最高の季節なわけである。

そういうわけで、まあ、旧暦ってのは最近みたいに「和」だなんだと言うなら、まず意識せにゃあいかんものなんじゃないかと思ったわけである。なにしろ、理にかなっている。

論より証拠。はっきり記憶しているわけではないが、昨晩あたりから猫のなき声が変わった気がする。ねっとりした赤ん坊みたいな、要するにさかりがついた声になった。猫にゃあ、にゃあ、ではなく、あうー、あうー、である。

まあ、暦の上では春なんだから猫達がその気になるのも無理はない。旧暦の場合、だいたい立春を年初にしていたらしいので、年賀状に「迎春」なんて書いてあるのも頷ける。子どもといっても、それこそちょっとだけ、さかりがついてきたぐらいの年齢になると、正月なんて真冬のくせに「迎春」って何だ、とか、なんだかイヤラシイ感じがするな、なんて深読みしたものである。だって春だよ、春。辞書をめくっては、怪しげな言葉に(実際はどうってことない)いちいち、身もだえてた思春期ボーイが妙な想像をしても誰が責められようか。といっても、年の初めから、いきなり春なんて、やっぱりどこか気恥ずかしい。要はバランスというわけで、立春の時期である今は、定期送本して頂いている雑誌のグラビアなんか凝視しないようにしつつ、節分の豆の残りをかじっているわけだ。写真
*写真はうちの猫達。さかりはついてないはずだ。