久々に、以前つとめていた編集部の人々に会った。楽しい一時。K生さん、H口君、M田さん、皆変わってない。いいわあ、懐かしい人達とのトーク。神楽坂へ出向き、何枚かピザをシェア。丸いものを分け合うとどうして、こんなに心華やぐのであろうか。

随分前のこと、クリスマスケーキを男子4人で食べることになった。ケーキ担当の男が、ブッシュドノエルという長細いケーキを買って来てしまい、何となく、他の男達3人が落胆するという事件がおこった。やっぱり「分ける」なら「丸」にきわまるのである。
その時は、丸には「端っこが無い」ので、分けるとき、限りなく公平な感覚がある。それが証拠に、ブッシュドノエルの場合は、中央の2切れをめぐって激しい攻防が繰り広げられた。丸は深淵なのである。

とまれ、
先輩のKさんは
「会うっていいね」
一堂首肯、こくり。「会う」ことが大事なのである。今やコミュニケーションの手段は、一見ごまんとあって何の妨げもない。たとえば、昨日おれの前で坐っていた大学生の目撃譚として

「今、電車。前の席の人が、中田英寿に似てるけど、大量に鼻毛が出ている」

とか、以前はその場に一緒にいるか、面と向かって雑談する機会がなければ、そういう日常の機微を話すことなんて出来なかった。ところが今やメールやらを使えば、ちょいちょい、そういう、ちまちました気にかかった出来事なんかも分かち合えたりするのである。
そうすると、「どうも会うのは億劫だけど、連絡はとりあっている」という器用なことが、些細なレベルから可能になるが、実際、これは情報が行き交ってはいるのだが、物理的に存在同士が会ってコミュニケーションするのとはまったく違うのだった。

何分、自分の姿は、鏡を見た所で結局、鏡の中の自分でしかないわけで、誰にも会わずに、それでも人たりえるのは仙人とか、特別な種類だけなのである。というわけで、やっぱり縁は大事にしたいものである。最近は、籠って書いてばっかりだったのでことさら思うわけである。

と、帰り道考えていたら、また、一人先輩のYさんに遭遇し、ちょいと挨拶。
そこで、ふと、あのピザとケーキを思い出し、

丸は円であって、円は縁か、

などと思い至る。なんだか、書家っぽい人が色紙に書くみたいでアレだが、意外に巧くまとまったなあ、と一人ごち、やっぱり人と会うのはいいと見当違いな充足感まで味わいながら歩を進めていった。暫くして
五十番という中華饅頭が名物の店の前を過ぎる時、
そういえば、

みんな少しふっくら丸くなったかな、


とさらにオチをつけてご満悦なおれであった。