色即ぜねれいしょん』を見た。  

友達Aさんの大親友がプロデュースしたというので、ドキドキしながら見たんである。

まだ学生の頃。  
友達(女の子)の友達が芝居をやるというので見に行った。内容は、シーツみたいな白い布を被った人達が延々と自己批判みたいなことをしては叫ぶもので、ナイーブなおれにはチンプンカンプンだった。だが、おれは、連れて行ってくれた女の子に非常に興味をもっていたので、観劇後 「どうだった」と尋ねられ、思わず 「面白かったね」 と答えたしまった。すると件の女子は 「あたし、ああいうの嫌い」 以来、おれは正直に感想を述べるようになった。とまれ、「友達の友達の作品」を見る時には、必ず、この青春の一こまを思い出す。    

原作はみうらじゅん氏のほぼ自伝的小説で、設定は74年。主演の渡辺大知氏は、おれの甥の背を50センチ高くした感じ。要するにそっくりで、おれは、まだ幼い甥がこれから歩むべき未来を先取りしているかのような錯覚をおぼえた。はらはらするんである。親心というか、叔父心というべきか。会ったら小遣いをあげたくなってしまうような、柑橘系でもオレンジやレモンじゃなく柚とかポンカンのような青年なのであった。  
もう20年以上も前だが、おれたちの仲間は自分達の状態を「温存」と呼んでいた。リビドーやら何やらを全部あたため「いつかは蓮の花と咲く」と歯ぎしりしていた。今だったら「温存系」。どちらでもいいか。余談だが、蓮の花は1000年くらい土中に埋まっていても、平気で花を咲かせる。究極の温存系なのだった。  
通っていた学校はリアル・ヤンキーつまりアメリカ人ばっかりだったので、これは経験値格差社会であった。つまり、ビバリーヒルズ青春白書みたいに、オープンカーに乗ってやりたい放題にリビドーを昇華している連中を横目に見ながら、おれはプログレなんか聴きながら、欲望を温存していたんである。ピンクフロイドだって怪しいのに、ジェスロタルなんか聴いててもてるわけがない。ピーヒャララ。  

大知氏演じる主人公・じゅんは、「フリーセックス」をもとめて仲間と旅に出る。そしてちょっとだけ年上の人達と出会い、反抗するきっかけもないほど幸せで、その価値なんかを知りながら、やがて文化祭。大嫌いなヤンキーだけれど、一人認める須藤なんかとの交流もあって、疾走していく。背景には、いつもロックがある。  
誰にも必ず身に覚えのある事が、この映画にはある。「大人は誰も、昔は子供だった。」というのは星の王子様で、その前は「みんな胎児で」さらに遡れば「みんな精子」だった。 で、この映画は、「男は誰も一度は童貞だった」ことを教えてくれる。今、温存している人もかつて温存していた人も、生き物というレベル、大局で見たらまあ大差ない。だが、おれたちは、そんな大局で人生を見ることなんてできない。それは枯れ果てた老人の特権であって、逆に、いつまでも年をとらない人は、そんな大局なんて持ち合わせない。  
人生は、ちんまい事の積み重ねである。だんだん、ちんまい事に慣れて来て処理スピードがあがるが、青春は、処理できず、ちんまいことに振り回される。ただ、処理ばっかり長けて無表情になるくらいなら、いつまでも、ちんまいことに翻弄されて日々泣き笑いしたほうがずっと面白い。  
かように、いい映画だ。もういっぺん、自腹でちゃんと見ようと思う映画。  

この映画のおかげで、おれは、1つ確信したことがある。甥っ子が年頃になって好きな女の子ができたら、携帯じゃなく、小銭を作って公衆電話で話すことをすすめよう。  
青春はまどろっこしい。だから青春は最高だ。